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半九って何?

『半九』とは
 大儒学者で清武の郷土偉人である安井息軒(やすいそっけん)が、江戸で開いた「三計塾」で塾生に諭し自らの座右の銘とした 言葉に「半九」というものがあります。
 これは中国の古典である「戦国策」の中の「百里(ひゃくり)を行く者は九十を半(なか)ばとす」という言葉を縮めたもので、「何事も最後までやり遂げる時は、その終わりが最も困難であり苦労するものであるから、九分を通りこしたところをようやく半分まできたと考え、気を抜かずに最後までやり遂げることが必要である」という意味が込められています。
『半九』とは
半九ホール
 この『半九』という言葉は、地元清武の様々な名称につけられていますが、宮崎市清武文化会館の大ホールの名称『半九ホール』も安井息軒が残したこの言葉にちなんでつけられたものです。
 また、『半九ホール』の緞帳には清武のシンボルである、『息軒旧宅』、『双石山』、『清武川』、『梅の花』、『日向夏みかん』が織り込まれています。緞帳が下りているときは、ぜひご覧になってください。
清武町の偉人 安井息軒(やすいそっけん)
文化会館入口前の安井息軒銅像
文化会館入口前の
安井息軒銅像
 安井息軒は幼名を順作(じゅんさく)、字(あざな)を仲平(ちゅうへい)と言い、寛政十一年(1799年)に清武郷中野(現:宮崎市清武町中野)に安井滄洲(やすいそうしゅう)の次男として生を受けました。
 二十七歳で藩主・伊東祐相(いとうすけとも)の侍読(藩主に講義する人)となり、藩主に仕える傍ら父・滄洲を助けて、清武の明教堂で子弟の教育にあたっていましたが、天保二年(1831年)滄洲が藩校振徳堂総裁兼教授となったため、息軒も助教授として飫肥(現:日南市飫肥)に移ってその教育に従事しました。
 天保九年(1838年)、江戸に上り翌年私塾「三計塾」を開き、以後三十七年間に二千人の塾生を育てました。明治の歴史に名を残した谷千城(たにたてき)、品川弥次郎(しながわやじろう)、陸奥宗光(むつむねみつ)、三好退蔵(みよしたいぞう)などは、この塾生でした。文久二年(1862年)、幕府は昌平黌の立て直しを図り、儒官に息軒、塩谷宕陰(しおのやとういん)、芳野金陵(よしのきんりょう)を登用します。63歳の息軒は14代将軍家茂にも謁見し、儒学者として最高の位置に上り詰めます。
息軒が残した言葉(三計)
一日の計は朝(あした)にあり、
一年の計は春(元旦)にあり、
一生の計は少壮(若い)の時にあり
若い時こそ大切で、目標を立それに向かって努力することが大事であるというメッセージ
■主要参考文献
  • 清武町教育委員会編『きよたけ歴史館』清武町教育委員会,2002年
  • 宮崎県編『ふるさと再発見@ みやざきの百一人』宮崎県文化振興課,1999年
  • 船木麻由,『安井息軒』,旅のライブ情報誌プリーズ,No.313,2013年5月,pp20-23
  • 安井息軒, 宮崎県, 2013年7月10日
  • 宮崎県郷土先覚者, 宮崎県, 2013年7月10日
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